幼児の脳

幼児期は、車を運転する父親に驚愕した。車を操れるということでは無い。
ある道路上を真っ直ぐ走行していて、曲がると、別の道路上に乗る。再び道路上を走行するのだが、対向車と全く衝突しないのだ。対向車は、必ず我々の車が載っていない側の車道を通過し、全てと上手くすれ違った。次々と曲がり、新しい道へ行く度に、父は瞬時のうちに対向車が走行してない側を走行するので、父親を天才だと思っていた。遠出をしても選択を決して誤らない。
日本にある全ての道路において、対向車と衝突しない側を頭にインプットしている父。
私が大人に成ろうと、父のような偉業は成し遂げられないと痛感した。

いかなる電化製品よりも、ポストを凄まじいと畏怖した。
住所を記入して郵便ポストに投函するだけで、目的の家のポストに届くのだ。
ポストに入った葉書は、あの赤いポストを支えている円柱部分を通過して、地下へ行く。そして、地下道を自動的に進み、宛名の住所へ届く。地下道は、全ての家のポストと繋がっている。
そう思っていた。
私の家のポストのカバーは、黄ばんで皸の入ったプラスチックのようなもので、全体が歪んでいるのでカバーを押してもカッチリ閉まらずにバイーンと反動して常時半開きであった。しかし、壊れかけのポストにもかかわらず、ちゃんとちゃんとしていた。沖縄に移住した駿足の幼馴染みからの珊瑚の絵葉書も届いた。
今も、ブロック塀の内部に設けられた網の目状の通路を、様々な手紙類が行き交っている。
義理の伯父からの年賀状が団子虫のような汚筆でも、住所が自動的に識別され、目的地のポストへ到着する。
富良野の五郎の家にも届く。北海道の増毛郡大字増毛字増毛に住むハゲを励ますファンレターも届く。
手紙が通路を走ると思っていた。車が道路を走るように。汽車が線路を走るように。
ブラジルにも届くことを知っていたら、気絶していただろう。無機物がひとりでに飛ぶエアーメール。

以上の反面、無邪気でない観察眼を発揮することもあった。
小学校に入学する少し前に、その学校で身体測定があった。
聴覚検査の時は、入学前の幼児が5人ごとに、教室に並べられた椅子に座って待機した。一人ずつ前へ出て、受話器のようなものを耳にあてて検査が行われた。
そこを担当していた人は、厳しそうな中年女性教師だった。教室に入るや、全く笑みの無い表情で、低い声で淡々と説明し出した。
「とても小さい音が鳴ります。ぴいと鳴ったら、手を挙げて下さい。いいですね。手を挙げるんですよ。しゃべらない」
私は椅子に座って、検査をする幼児を眺めながら、自分の番を待っていた。
ところが、検査状況に、ある法則があることに気付いた。
教師は、検査の機器を構っている時は、下を向いている。そして、教師が音を鳴らして、音が鳴った瞬間に幼児の方を向き、手を挙げたかを確かめる。
そう、この教師が視線を幼児に向けた時と、幼児が手を挙げる時が、一致していたのだ。
案の定、私の番の時も、音が鳴った瞬間に、オバチャンが険しい視線を送ってきた。
実際は、本当に音が聴こえたから手を挙げたのだが、
「私が見つめた時に、音が鳴ることに気付きましたね」
と、今にも心情が見破られそうで、耳が真っ赤になっていた。


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